景福宮は光復節の記念式典後、市民に開放された。
旧朝鮮総督府のあった敷地内には特設舞台が作られ、来賓が去った後には無機質な風景が広がっていた。

景福宮

時をへて思うこと

藤本 巧


 撮りたい被写体に向けてファインダーを覗いたとき、思いがけず美の範ちゅうでない存在が現れて、シャッターを押すのを戸惑うことがある。

 日帝時代、日本政府は景福宮敷地内に朝鮮総督府庁舎を建造。そして正門である光化門を1922年に破壊しようとした。
そのとき柳宗悦は、抗議文「失われんとする一朝鮮建築のために」を書き世論に訴えた。そのことで光化門は難を逃れたのである。

 1973年その光化門の前に立ったが、後方に構える中央政庁(旧朝鮮総督府)の石造りの西洋建築が、光化門を威圧している上に、北漢山(三角山)も隠れ、シャッターを押す気になれなかった。
 柳宗悦が説いた「秩序ある建築とその自然の背景」が破壊された風景だと思った。


光化門 2008


 1983年、政府庁舎の移転に伴い旧国立博物館をこの中央政庁に移した。そのとき日本侵略時代の建物を壊す案もでたが、悲劇的歴史遺産として残すことにした。そのため光化門の情景は変わらなかった。

 そのころの私は、韓国の美を求めて古寺巡礼をしながら農村を訪れていた。
 お寺の風景は俗世界から離れていく、朽ち果てた寺であったが、僧侶の暮らしは慎ましく僧房の破れた障子までが美しく感じられた。車窓から眺める農村は、荒々しい岩山を背景に滑らかな藁葺屋根の曲線を持ち、農業機械でなく赤牛が田を耕し、白衣の人たちが田植えをしている。共同井戸の女たちは使い慣れた砧を打ち洗濯に勤しんでいた。人間の生活に於ける営みそのものが風景と美しく調和していた。

 時が流れ、1995年から国立博物館の解体が始まり、景福宮の配置図は元に戻った。勤政殿は光化門を通して見ることができるようになった。しかし朝鮮戦争で焼失した重厚な光化門が鉄筋コンクリートで再建された姿は、やはり被写体としてのズレを感じた。
2008年8月15日、私はソウルにいた。光復節の朝、南大門市場から景福宮に向かう。街を歩く人びとはまばらで、商店のシャッターは下ろされたまま、清渓川も閑散としていた。

 南大門路、太平路の側道には警備隊のバスが隙間なく駐車し、車を規制している。マンホールには印の紙が貼られ、警官、機動隊員が道行く人を警戒しているようだ。
 世界からの要人が招かれた式典に備えた警備は益々厳しくなっていた。

 70年代、ソウルの街を歩いていると、突如警報が鳴り、緊張した空気の中で歩く人たちは鳴り止むまで建物の中に隠れるか静止しなければならなかったことを思い出した。
 カメラバックを担ぐ人は周りにはいない。補助カメラで景福宮に向けて軽く一枚シャッターを切ってみた。構図のテスト撮りでなく、警備員たちの反応が知りたかった。彼らは何もなかったように私の横を通り過ぎて行く。 写真は大丈夫と判断して一眼レフカメラをバックから取り出し景福宮周辺を取材した。
 お昼を過ぎたころから、人々は街に溢れだしてきた。世宗路にブラスバンドが通るころになると、先ほどまでの緊張した静けさが嘘のような賑わいとなった。


景福宮 2008


 「第63周年光復節、大韓民国建国60年」記念式典の後は、景福宮は市民に開放され、人々は建春門から王宮に入って行く。
 旧朝鮮総督府のあった敷地内に大きな特設舞台が設置されていて、来賓客が去った後の椅子は雑然と並べ積まれていた。無機質な風景は自由に構図を決めることができて、被写体として面白かった。
 自分の高揚する鼓動に合わせるように角度を変えながら、私はシャッターを切り続けた。勤政殿が仮舞台で隠れ、光化門はビニールシートで被われ、遠方に望むのは南山ではなくビル群であったが、美とは異なるもっと大きな存在に魅力を見出した。

 李王朝の正宮、景福宮の正門として光化門は建設されたが、豊臣秀吉の朝鮮出兵の騒乱で焼失。1950年の朝鮮戦争でも再建された光化門が焼失。そして1972年に再建。今また光化門は本来あるべき位置に再建工事が行われている。
 幾多の歴史のなかで焼失・再建がくり返され、光化門をとりまく風景がどのように変わっても、その時代時代を撮影する。そうすればさらに先に進んでいけるのだと思えた。

統一日報 2008.10.22 掲載